「音楽が人を救う」ということ ─ 『ボールドアズ、君。』

 東京で話題作となり、満を持して大阪に凱旋してきた『ボールドアズ、君。』。私はこの映画を、5月9日、大阪公開の楽日に、第七藝術劇場で観ることができた。この映画の主たる舞台がまさに第七藝術劇場であり、出演者の多くも大阪で生きる人たち。しかし、それでもこの作品を単に“大阪の映画”とは呼ぶのは難しいように思う。むしろ、これは大阪のオルタナティブな側面を描いた作品であり、一般的なステレオタイプで語られる大阪とは異なる、”もう一つの大阪”がそこにはあった。

 この映画をどう評するかは難しい。ただ、一言で表すなら「本気の映画」ということだろう。これは極めて平凡な言葉ではある。しかし、この映画が届ける直球のメッセージを表すには、他にふさわしい言葉が見つからない。そんな真っ直ぐな映画だった。
 本作の監督、岡本崇はミュージシャンであり、その辞書上の意味は「音楽を演奏する人」であろう。ただ、そんな表面上の言葉でこの映画の「音楽」が説明できないことは、『ボールドアズ、君。』を見たらすぐにわかる。「ミュージシャン」とはメッセージを持つ人たちのことなのだ。ただ、その手段が音楽であっただけだ。

 『ボールドアズ、君。』は、冒頭、主人公・南條珠が“エンタメ映画”を否定する場面から始まる。つまりそれは、監督・岡本崇がこの作品を単なる娯楽ではなく、自らの内面をあますところなく表現し、社会にメッセージを届けるために“本気の映画”を描こうとした、その覚悟の表明なのだ。

「ロック未遂」で見た“らしさ”の演技

 思い返せば、岡本崇の映画は、いつだって本気だった。私がまだ福井駅前短編映画祭の代表だった2018年、岡本監督の作品『ロック未遂』がノミネートし、ベストアクトレス賞と優秀賞を受賞した。

 『ロック未遂』は、誤解を恐れずに言えば、“短編映画”としての完成度は高いとは言えなかった。おそらく、その頃の岡本監督は、この短編映画を映画としてよりも、未遂ドロップスというアーティストのMusic Videoとして構想していたのではないだろうか。撮影技術は洗練されたものではなかったし、セリフ回しや演出に、安易にも見える”関西らしいベタさ”があった。ただ、通天閣や大阪城といった、”いかにも大阪”を象徴するような風景は登場しなかった(はずだ)。そのため、彼女たちの匿名的な日常がむしろリアルに浮かび上がっていた。そして主題歌はあまりにも素晴らしい。こうした要素の積み重ねが、この映画を私の脳裏に焼き付けることになった。
 もし、これと同じようなストーリーが、“オシャレな”東京の映画として撮られていたら、福井駅前短編映画祭の上映作品のリストに入っていなかったかもしれない。「大阪」の作品であったこと、そして“洗練された”一般的な「映画」ではなかったこと、この二つがそろっていたからこそ、ノミネートされたのだろう。

 福井駅前短編映画祭は”そういう映画”を選ぶ映画祭だったのだ多くの地方の映画祭は「東京の作品を地方で紹介する場」となりがちである。それが地方と東京の映画監督の交流の場となるならばまだしも、多くは「東京の映画監督を迎え入れるだけの場所」となってしまうことが多い。ただ、東京のレベルの高いインディーズ作品を福井の人に知ってもらい、福井の作家を育てるという観点では、東京の作品は否定しない。しかし、福井で映画祭を開催する意義はいつも考えていた。
 特に若い作家の自主制作映画に多いのは、地方から東京に出た若者が、その東京という大都会でいかに苦しんでいるか、を描く映画だ。ひょっとしたら、東京に住む人にはこのような映画が刺さるかもしれない。しかし、地方在住の者から見れば、そんな東京ならば、早く地元に帰った方がいいよ、そこに幸せがあるよ、と思ってしまう。
 『ロック未遂』は東京をメインとする若者群像の映画とは違う、大阪という地方の映画、オルタナティブな映画であった。これは選ぶ側としてはポイントが高い。
 しかし、選者の一人であった私の視点はそこまでだった。正直なところ、私自身は、この『ロック未遂』の凄さを審査の段階では理解できてなかったのだと思う。ミュージシャンがノリで作った、大阪の映画。そこまでの理解だった。

 ところが、審査委員長の津田寛治は、私が注目していたポイントだけを見ていたわけではなかった。というより、私が重視していた点にはほとんど関心を示さず、まったく異なる審美眼でこの作品を評価していたのである。福井駅前短編映画祭において、俳優に贈られる「ベストアクター賞」「ベストアクトレス賞」は、津田さんの独断で決定されることになっている。

 津田さんは、やはり俳優ならではの視点を持っている。そしてその視点は、とても独特だと私は感じている。彼は常に、俳優の演技と作品との関係性を見ている。映画に対して「あるべき演技」を求め、それを俳優に期待する。その姿勢は、きっと彼自身が俳優として演技を追求してきた姿そのものなのだろう。

 ただ、私には、津田さんが『ロック未遂』を「ベストアクトレス賞」に選んだ理由が、当初はどうしても理解できなかった。その理由が少し見えたのは、映画祭当日、映画館のスクリーンで『ロック未遂』を初めて観たときだった。それまでも審査のために自分のコンピュータで何度も観ていたはずなのに、映画館という空間で、他の観客たちとともにその作品を体験したとき、私の中にあった印象が大きく変わった。
 津田寛治が見出し、「ベストアクトレス賞」として評価した意味が、そのときに初めて、少しだけ分かったような気がした。
 ぺつさんの演技。それはもはや“演技”とは呼べないものだった。いわば、「演技を超えた存在感」だったのだと思う。私の語彙では、それを“らしさ”としか言い表せない。ぺつさんはこの映画の中で、何かを演じていたというより、ただ“そこにいた”。演出は当然あったにせよ、画面の中にいたのは、音楽を熱く歌う彼女そのものでしかなかった。その本質を、津田寛治は確かに見抜いていたのだ。

 ただ、惜しむべきは、私はその映画の感動を直接、岡本監督に伝えることができなかったことだ。その年の映画祭では、私は海外出張が入り、関西空港へ向かうたため、授賞式の最中で抜け出すことになった。その後、岡村崇監督や主演のペつさんも参加する打ち上げは盛り上がったと聞く。その時に、もっと思いを聞いておければ、私はもっと彼の映画を理解できていたのかもしれない。

 ただ、私は、岡村崇監督は、再び、ミュージックビデオと音楽の世界に戻ると思っていた。彼の映画を見ることはないと思っていた。ところが、彼はそれ以降も映画を撮り続けた。

コロナ禍に咲いた花、「君の僕の詩」


 2020年からのコロナ禍は、映画祭とインディーズ映画の在り方を大きく変えた。福井駅前短編映画祭も2020年の開催を見送ることになった。パンデミックの中、映画祭を開催すること自体が難しくなった。
 この時期、多くの自主映画が密室劇となった。人との関わりが減り、俳優たちは部屋の中で表現するしかない状況だった。そして、そんな映画がオンライン上映で見られる時代。映画の在り方が大きく変わっていた。それからしばらくは、そんな制約の中で撮られた、”狭い”作品が、数多く映画祭に応募されることが続いた。

 おそらく、そうした時代的背景があったのだろう。福井駅前短編映画祭にノミネートされた岡本崇監督の次作『君の僕の詩』もまた、ほぼ密室劇で構成された映画である。しかし、それは単なる密室劇ではなかったのだ。2022年開催の同映画祭において、本作はテアトルサンク賞(観客賞)とベストアクトレス賞のダブル受賞を果たした。この作品もまた、津田寛治の琴線に触れることとなった。正確な確認はできていないが、津田寛治が選ぶ俳優賞に、同一監督の作品から複数回選ばれたのは、岡本崇監督が唯一かもしれない。
 『君の僕の詩』は、同時期に制作された『ディスコーズハイ』と対をなす作品といえるだろう。主演はいずれも田中珠里。そして、どちらの作品にも本物のミュージシャンが出演している。

 この映画も楽曲の素晴らしさが生きてくる映画ではあるが、一つ大きな違いがある。この映画の主題歌を監督である岡本崇が作詞作曲をしているという点である。そして、その曲はこの映画の中でとても大切な役割を担うのであるが、あまりにも美しい。
 本作で、歌が“絶望的に下手な役”として登場するぽてさらちゃんを知ったのもこの映画が初めてだった。福井での舞台挨拶にも監督とともに登壇し、彼女独特の空気感に驚かされた記憶がある。彼女はダブル主演の一人として、田中珠里とともにベストアクトレス賞を受賞している。
 『ロック未遂』では大阪的な“ベタさ”と感じたセリフ回しは、この映画にも健在だった。登場人物が自らの状況を早口でまくしたてるように説明する演出は、一見すると不自然に思える。しかし、繰り返し観るうちに、この演出が“演技”というより“存在”を際立たせるためのものだと理解できるようになった。
 俳優は表情で語るゆえに、言葉は不要となることもある。しかし、ミュージシャンにとってはその存在自体が表現であり、むしろ状況を説明する言葉があることで、過剰にならずに、独特の存在感が際立つ。その意味で、岡本崇監督の演出は、音楽を軸とするキャストとの相性がとても良いことに気付いた。

 そして、『君の僕の詩』は、私が関わっているもう一つの映画祭、熊谷駅前短編映画祭でも受賞することとなった。そこにも深夜バスで会場にやってきて、『君の僕の詩』の上映を見守る岡本崇監督の姿があった。そして、ふと思った。岡本監督にとって、ここまで情熱を注げる映画とは、一体どのような存在なのだろうか、と。
 というのも、私自身もかつて自主制作で映画を作ってきた経験があるからこそ、よくわかるのだ。映画制作には莫大な費用がかかる。そして、映画祭に参加することも経済的に大きな負担となる。それにもかかわらず、よほど商業的に成功しない限り、リターンはほとんど期待できない。それでも岡本監督は、映画を撮り続け、そして映画祭を駆け巡っている。

 そこまでやるのはなぜだろう?
 その問いだけが自分の中には残っていた。

音楽と存在が交差する「ボールドアズ、君。」

 私は大学教員を20年近く務めている。そのため、自分の学生たちの作品を観に行くことも業務の一環である、というよりも自然と足が向かってしまう。おそらく、岡本崇監督の『ボールドアズ、君。』を観に行こうと決めたのも、そうした感覚によるものだったのだろう。岡本監督がどう思っているかはわからないが、福井駅前短編映画祭としては、彼は“うちの映画祭出身の映画監督”なのである。
 この映画については事前にも田辺・弁慶映画祭の関係者からも「いい映画なんですよ」とその評判を聞いていた。私自身が信頼する方の言葉だったので、「彼がそこまで言うのなら、どんな映画なのだろう?」という関心もあった。

 ちょうどその週、金曜日の大阪公立大学での授業が終わった後に間に合う時間帯で、第七藝術劇場での上映があった。これはもう、行くしかない。

 映画は、冒頭に記したとおり、岡本監督の決意から始まる。そして、この作品も音楽劇である。劇中の人気バンド「翳らず」のボーカルに後藤まりこ、主演に伊集院香織。そして、これまで岡本作品を高く評価してきた俳優・津田寛治も重要な役どころで出演している。津田さんは岡本監督の世界観を深く理解した上で出演しているのだろう。それは、スクリーン越しにも痛いほど伝わってきた。

 この映画のテーマは「救われる」こと。それはおそらく、監督自身が、音楽に救われたこと、映画に救われたこと、それらがこの『ボールドアズ、君。』の中で交差しながら展開する。
 映画を観て、やはり「これが岡本崇の世界なのだ」と打ちのめされた。これまでの短編とは異なり、本作ではライブシーンも登場し、ミュージシャンたちの存在感が強烈に浮かび上がる。岡本崇は、まさにこの世界で生きてきたのだ。

 しかし、これは映画なのだろうか?
 正確には、これは劇映画と呼べるのだろうか?


 私自身、これまでにドキュメンタリー映画を劇場公開した経験がある。その際、ある人にこう言われた。「なぜドキュメンタリー映画は劇映画より集客が難しいのか。それは観客が、映画館に“ファンタジーの世界”を求めてやって来るからだ。現実を見たくないから、ドキュメンタリー映画は人を呼べない」と。私もそうなのか、と理解はしたくないが、知っていた。

 ところが、『ボールドアズ、君。』には現実があった。

 もちろん、『ボールドアズ、君。』はフィクションであり、劇映画だ。登場人物には本名とは異なる「役名」が与えられ、実在しないバンド「翳らず」が人気アーティストとして紹介される。だが、演じている彼女たちは、実際のアーティストなのだ。

 そして、冒頭で、岡本崇監督が否定した、売れるようにつくった映画ではないこと、そしてこの映画には、岡本崇が伝えようとした魂、メッセージがあった。それは岡本監督自身の実体験があったのだろう、音楽に救われた経験。それを誰かに届ける手紙として、この映画は結実している。圧倒された。
 『ボールドアズ、君。』は“作られた”映画ではない。そこに確実に存在し、生きている、社会で足掻いて苦しんで、それでも希望を見る人々、その“存在を描いた”映画だった。現実があるがゆえに、人は夢を見れるのだ。
 映画の中には「救われる」瞬間が描かれていた。それ自体は、あるいは演出としてありふれているのかもしれない。だが、圧倒的な「本気」の言葉と、そこにいるミュージシャンたちの存在によって、それは比類なき強度を持ったシーンへと変わっていた。
 私はそこに、岡本崇監督の一つの“完成型”を見た。彼は、おそらく過去の自分と”本気で”向き合っているのだ。
 それは音楽も映画も関係ない、大切な自分への手紙だった。

舞台挨拶に見えた、それぞれの物語

 映画の感動もまだ心に残る中、開催された『ボールドアズ、君。』の舞台挨拶も、またひと味違う、特別なものだった。というのも、出演者の多くがミュージシャンであり、彼らのミニライブが披露されたからだ。私が参加した5月9日の回でも、出演者のぽてさらちゃんと、監督の岡本崇によるライブが行われた。2人のことは“知っているつもり”だったが、そんな私の先入観を軽々と超えてくる、想像以上に素晴らしいライブだった。

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5月9日の舞台挨拶の模様

 ぽてさらちゃんは、世間では「七色の声を持つ歌手」として知られているらしい。それまでに私が聴いてきた彼女の楽曲は、電子音を取り入れたアレンジのあるものだったが、この日のステージではアコースティックギターを激しく掻き鳴らしながら、力強く、真っ直ぐに歌うものだった。なぜ、このぽてさらちゃんを早く知らなかったのか。それを後悔するほどだった。

 また、岡本崇監督も、劇中では激しくクールなギター演奏を聴かせてくれるが、このステージでは一転、美しく響くアコギと繊細な歌声を披露してくれた。
 2人は、やはり“アーティスト”なのだと、改めて実感させられた。

物語は、まだ大阪で続く

 舞台挨拶の最後に、岡本崇監督からサプライズが発表された。事前に、上映中に応援の声をあげてもいい「応援上映」が5月31日にあることは劇場のロビーに掲示されていたが、その日からまた1週間の追加上映がされることになった。

 第七藝術劇場での追加公演情報

 この作品はもっと大阪で見られるべきだし、それが実現する。
 帰る前にせめて一言、監督にエールを送りたい。その思いからパンフレットを購入してサイン会に並んだ。劇中写真や出演者の詳細が詰まった、濃厚な内容のパンフレットだった。監督や出演者たちから順にサインをもらう。監督には「映画、よかったですよ」と伝えることができた。そして最後に待っていたのが、ぽてさらちゃんだった。思わずCDを2枚購入し、その帰り道の車の中で、さっそく彼女の曲を聴いた。
 『葬、ぽてさらちゃん。』──それが全国流通された1stアルバム。そして、その“裏バージョン”とも言えるもう1枚のCD。どちらも素晴らしい楽曲ばかりだが、やはり私は、アコースティックギターで歌うぽてさらちゃんの曲の方が好きだ。その方が彼女の言葉がより深く届くような気がする。

 今思えば「ディスコーズハイ」の長編を見逃していることが心残りだ。しかし、それは、まだ岡本崇の新しい面を探すことができるということでもある。それを考えると少し嬉しくなった。

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