現在、日本国際観光映像祭の準備に追われている。今年の開催地は岡山県真庭市。決してアクセスしやすい場所ではない。それにもかかわらず、世界各国から「どうやって行けばいいのか?」という問い合わせがひっきりなしに届いている。開催期間は3月17日から19日まで。その間に国際的なシンポジウムが開かれ、日本の作家が討論のために集まり、真庭市の魅力を探索する。そして、おそらく、ここから将来の観光映像に影響を与える“事件”が起こるだろう。それは、これまでの映像祭でも繰り返されてきたことだ。
さて、「観光映像」とは何だろう? 観光に関わるすべての映像を指すと考えてよいが、それだけでは定義が漠然としすぎる。日本国際観光映像祭も所属するCIFFTでは、主要な部門は以下の5つである。これにIndependent Film(Vlogなど)が加わり、計6部門と考えてほしい。
Tourism Destination City (観光誘客 都市)
Tourism Destination Region (観光誘客 広域)
Tourism Destination Country (観光誘客 国と地域)
Tourism Product(観光経験、資源)
Tourism Service(ホテルや交通)
Independent Film (Vlogなど)
いわゆる、観光誘客は観光映像の一丁目一番地だ。それがCityなのかRegionなのか、それともCountryなのか。CIFFTの場合はもっと実務的なので、Independent Film以外は結局のところクライアントがどこだ、ということで規定している。市役所の映像なら、Tourism Destination City。県レベルならば、Tourism Destination Regionと。ただ、日本の場合だとそれはそんなに簡単ではない。たとえば、移住促進の映像や、住民に地元を好きになってもらいシビックプライドの醸成を目指す映像は、観光誘客だろうか?おそらく違う。なので、日本部門では、観光誘客の部門だけでなく、シティプロモーションの部門も作っている。
さて、観光映像のあり方を授業でいろいろと喋ってきた。その中でよく使うのが次の図だ。これが誘客においてもいろいろな意味があることを理解してもらうための図である。

よく言われる「タビマエ」「タビナカ」「タビアト」だ。「タビマエ」は理解しやすい。行ったことのない場所を紹介する映像だ。しかし、観光の目的をもう一度考えてみよう。今の日本の観光振興は政策で行われている。なぜか、それは日本の人口が減っていっているからだ。それも地方部での人口減少が著しい。そんな地域を支えるために観光が振興されている。

地域から人口が一人減る。そうなると、地域での年間消費額が125万円減る。その額は外国人旅行者なら8人分に相当する。だからこそ、一人減れば外国人旅行者を8人呼ぶことが必要だ(では、その8人の旅行者を誰が応対するのだ、という矛盾はあるが)。つまり、観光は来てもらうだけでなく、消費してもらうことも重要なのである。
たとえば、私も住んでいた福井県。ここに来てもらいたい、と思って誘客することは必要だ。しかし、それ以上に消費額を増やしてもらうことが重要。たとえば、福井といえばカニである。実際に福井を訪れて、雄ガニを食べようとすると、その値段の高さに驚く。なぜにそんなに高いのか?これは本当かどうかはわからないが、福井の人は言っていた。違う地域では、倉庫がいっぱいになるまで何日も漁にでてカニを水揚げするが、福井はその日の晩に出港し、いっぱいにならなくても朝になったら帰ってきてそれを市場に出す。だから、新鮮なのだ。これが本当だとして、それが理由を説明する、他とは違うんだ、という説得力のある映像があれば、高いカニに喜んでお金を出す人が現れる。これも観光映像となる。これは旅の間の消費額をあげる「タビナカ」の観光映像となる。つまりは、ただただ人を呼ぶだけではないのだ。地域を支えるための観光だ。
しかし、観光とはもう少し複雑だ。このような地域の経済的な事情のためだけに観光があるのか?否!次の図を見てほしい。

これもよく授業で使う図である。先ほど言っていた、地域の消費額をあげるための観光業も確かに重要だが、それは観光の一面である。現在、世界では戦争が続き、危うい状況にあるが、世界の人々の相互理解に貢献し、平和のための観光もある。そして、それ以外にも人生のための観光がある。ちょっと話はずれていくが、私はドキュメンタリー映画が大好きだ。そして、こういう言葉がある。「ドキュメンタリー映画は世界の窓」。世界の風景を見る、世界の人々の暮らしを見る、他の人の人生を知る、これらが人生を深める学びとなる、ということだろう。実は観光も同じような観点があるのかもしれない。和歌山大学の草創期にはこういう言葉を言う人たちがいた。「観光権」。人間には観光をする権利があるのだ、ということ。それは権利というよりも義務だ。観光をする義務が人間にはある。観光をして、学びつづけなければいけない、それが民主主義を支える大切な行動だ、ということだ。
ここで一つ映像を紹介したい。いい映像ではあるが、残酷な映像だ。

ここには、青森県大鰐町にある、向こうでは普通の暮らしが表現されている。地域に住んでいる人にはなんの変哲もない映像だろう。ただ、まぁ、藤代雄一朗という稀代の天才の映像の美しさはある。でも、そこにあるのは普通の暮らしだ。しかし、地方を捨て、東京に住む一人暮らしの誰かにはどんな映像に見えるだろうか。あなたはそこまでして東京に住む意味ありますか?これを捨ててまで得ようとしていることは何ですか?とエッジの効いた残酷な問いとなる。
その一方で、このような暮らしを残酷と捉えず、自分の中の大切なものとリンクすることもあるかもしれない。もし、そうだとしたら、このような大鰐に行ってみたい、大鰐のリンゴを買いたい、そういう思いも出てくるだろう。これも観光映像だ。大鰐を応援したいと思う気持ちを沸き起こす映像。実際に、この大鰐の暮らし、の映像は初見で、これを観光映像と呼ぶ人はいないだろう。しかし、これも観光映像なのだ。
観光映像祭を主催することの喜びは何か。それは自分の中の既成概念を崩してくれることだ。観光映像とはこうだ、と自分の中で定義をしている。しかし、それをすぐに壊していく映像に出会えるのが映像祭だ。数年前に、オランダ人作家から応募のあった中国の映像もすごいものだった。
中国の陽朔県は観光地。そこには筏に乗りながら川を下ることや、丘陵地に並ぶ田園を求めて人々がやってくる。なので、すでに多くの観光映像がある。発表されている。しかし、Daanの作るこの映像はそれらとは全く違う。そこにリアリティがある。ヘタれこむ男性、屠殺される豚、それを悲しむ少女。一方で駆け回る小学生やボードゲームで遊ぶおっちゃんたち、といった活気もある。それを魔術のような映像技術で語りあげている。この作家性は、観光映像はこうだ!、という既成概念を打ち破るに十分である。
もう一つ映像を紹介したい。ロシアのウクライナ侵攻によって、観光映像祭の審査から消えてしまった映像だ。もし、この戦争がなければ、きっと各国で多くの受賞をしたことだろう。
「In Russia」と題がついたこの映像は、ドイツ人の映像チームがロシアを旅して撮った映像だ。単なる旅の映像とは違う。おそらく、当時、そして今もロシアが持つ、怖さ、冷たさ、をこの映像が具現化しているのだ。泥の味、凍てつく空気、そして隔てた”壁”の向こうにいる人々。映像が我々の中にぼんやりと像としてできる筒ある何かを、明確な一つのイメージとして具現化し、さらにそれを我々に強烈にすり込ませる。これも観光映像だ。
最後に日本の映像をもう一つ紹介する。映像祭を開催することは本当にしんどい。でも、そんな時に素晴らしい作品に出会えると、その作品を紹介したい!という情熱がしんどさに簡単に打ち勝つのである。数年前、コロナの流れで、映像祭をどうやってこれからもやっていくのか、もうこれが最後だ、だったら自分の故郷でやっちゃえ、と滋賀県大津市で開催を決めた時。その自分を助けてくれた映像があった。
楽曲の素晴らしさとそれを際立たせる映像の力。北海道の持つ何かを、この映像は表し、そこにいく理由を与えてくれる。そんな気がする映像だった。
さ、このように観光映像とは何か、を書いた。そしたら、さらになんだろう?と、観光映像のことがさらにわからなくなった。ただ、思う。この時代に生きて、このような不確かな時代に生きて、その中で生き方を探していく、それこそが観光ではないか、と。そのための観光映像があるはず。だから、観光映像祭を開催していくのだろう。
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