港の記憶を手繰る旅

和歌山県は「海の県」である――と、いまさらのように思う。

だが、その海はどこにあるのだろうか。
すでに私たちは、和歌山を陸からしか見ていない。

昭和七年、田辺に鉄道が通じた。今から見れば、それは遅い開通だった。しかしそれは「鉄道がなかった」のではなく、鉄道を必要としない生活があったとも言えよう。

和歌山では人も、荷も、海を通って運ばれていた。大阪から名古屋へと続く航路が、生活そのものを支える動脈だった。船が着く時間に合わせて人は動き、物資は流れ、商いが生まれる。港は単なる発着点ではなく、人の気配が集まる場所だった。活気の源だった。

そして海は、遠くへ行くための手段ではない。目の前にある日常だった。

それを知ると、和歌山の町が海に向かって開かれている理由も見えてくる。山を背にし、海に正面を向ける。そこに人が集まり、人々の暮らしが、長い年月をかけて醸成されてきた。

鉄道が通じて、その流れは変わった。人の移動は陸へと引き寄せられ、海は次第に「景色」となった。かつて人の気配に満ちていた港も、役割を変えていった。

それでも、海は消えたわけではない。
ただ、私たちの暮らしの中で、その位置が変わってきた。

今はどんな関係が生きているのだろう。
その答えを確かめるために、私は海沿いの町を歩くことにした。

由良、串本、そして太地へ。

由良町

和歌山市から由良町へは、高速道路で広川ICを降り、国道42号線を進む。整備された道はやがて峠へと変わり、そのあたりから由良町に入る。この経路には海は見えない。

かつての由良には、国道42号線は通っていなかったという。昭和44年に由良バイパスが整備され、和歌山から田辺、白浜、新宮へと向かう流れが、この町を通過するようになった。

しかし、今はこの国道も主役ではない。平成6年に湯浅御坊道路が開通し、さらに速く、さらに遠くに向かう人々は由良町を通過しなくなった。それまでに生まれたロードサイドの賑わいは、すでに過去のものとなっている。

その時代を物語るように、峠道には古い食堂が点在している。錆びた看板と広い駐車場。かつて家族連れの車が立ち寄った場所には、いま、大型トレーラーが時折停まるだけで、時間は、そこに置き去りにされたままだ。

峠を越える。田園風景を抜け、紀伊由良駅の近くまでくると、興国寺の看板が見えてくる。興国寺は鎌倉時代の禅僧、法燈国師が住んだ寺として知られている。法燈国師は中国・径山寺で修行後、この地に味噌の製法を伝えた。それが金山寺味噌となり、それが醤油発祥のきっかけとなったとされている。

これはよく知られる話ではあるが、私は違和感を持っていた。一般に醤油発祥の地は湯浅町とされている。しかし、興国寺で醤油が生まれたのであれば、由良町が醤油発祥の場所なのではないだろうか。

興国寺の門前に、一軒の醤油店があった。旅の流れで話を聞いた。

「ここでも醤油はつくってきたけど、湯浅がそれを商売として世の中に広めたんや。だから、湯浅が発祥の地といわれている。昔からこの町でもそれぞれの家で醤油は作ってきたが、こんなふうに醤油を売るようになったんは40年ほど前からや。うちもそれまでは材木屋やった」

店の前には国道42号線があった。昔の話を聞いた。

「昔、有田の川には橋が一本しかなくてな、そこを先頭にずっと渋滞してた。この辺も民宿が多くて、どこでもいいから泊まれる場所はないか、とよく聞かれたもんや。峠のうどん屋もよく賑わっていた」

由良の町に入ると、海が近づく。紀伊由良駅から離れた場所に、大きなドックがある。のどかな風景の中に、タンカーやフェリーが係留され、その大きさが際立つ。そして海上自衛隊の基地もあり、潜水艦を目当てに人が訪れることもある。

7、8年ぐらい前のことだろうか、私はこの港を訪れていた。海岸沿いに立つ、空襲を伝える石碑の写真を撮っていた。そこへ、一人の老人がゆっくりと近づいてきた。

彼は、石碑が語るその空襲を知っていた。

輸送船の船長だった彼の父は、戦争中に攻撃を受けて命を落とした。その知らせが届いたときも、自分には何も告げられなかった。ただ、泣き崩れる母の姿を見て、すべてを悟ったという。

家の近くに停泊していた海防艦の艦長は、船に乗せ、折に触れて菓子を分けてくれた。だがある日、「戦争になる」と言われ、船から離れるよう強く命じられた。

――そして彼は、その船の最期を見た。

彼は、海防艦の戦死者を記す碑を、毎日掃除しているという。

駅からは離れた由良の町を歩く。駅前なのか、役場の周囲なのか、港なのか、どこが中心のかははっきりしない。住宅は広がるが、賑わいの痕跡は薄れている。かつては軍の町でもあり、遊郭もあったという。

いまも一軒、昭和7年から創業する畑山造船がある。海に向き合う営みは、完全に途絶えたわけではない。

ここは確かに、海の町である。しかし高速道路は、この町を通らない。
流れの中にあった町は、いま、流れの外側にあり、昔の記憶だけが生きているようにも見える。

しかし、だからこそ、ここは和歌山の港であった。

串本町・大島

由良から南に向かい、日高町からは再び高速に乗り、終点のすさみ南まで進む。そこからは再び国道42号線を通り、串本町へ向かう。串本町は、本州最南端の町である。高速道路はここまでは伸びておらず、国道42号線が幹線道路となっている。海沿いを走り、串本の中心街へと向かう。

串本の中心街からは南に潮岬があり、そこから橋を渡ると紀伊大島だ。かつてこの地は、海の交通の要衝であった。江戸と大坂を結ぶ南海路において、紀伊大島は重要な港だった。それは帆船の時代、商人や旅人は風や潮を待つためにここに滞在した。港には人が集まり、その滞在を支える商いが生まれていた。

しかし、蒸気船の時代になると、その前提は崩れる。船は風を待たず、港に留まる必要もなくなった。人の滞在は消え、港町の機能もまた失われていった。

その変化のなかで、特に潮岬の人々は外へと向かった。仕事を求め、遠くオーストラリアの木曜島へ渡り、パールダイバーとして生きたのである。

海は、人を集める場所であると同時に、人を送り出す場所でもあった。

オーストラリア木曜島。ここには串本から渡豪し、命を落とした方の墓所が並ぶ。

この町の歴史は造船業、漁業そして海運業とともに培われてきた。ビキニ諸島で被曝した第五福竜丸は串本町で建造された木造船であり、11ヶ月海を漂流し、アメリカ大陸に漂着した良栄丸は串本の船である。

そして、紀伊大島へ渡る。
ここには、1890年に遭難したトルコ軍艦の慰霊碑が建っている。エルトゥールル号遭難事件である。嵐の夜、島民たちは総出で救助にあたり、多くの命を救った。その記憶はのちに「海難1890」という映画に結実している。

昼どきになり、大島港の食堂に入る。
名物の「紀州梅まだい」が運ばれてくる。
その皿の向こうに、この海で生きてきた人々の時間が、幾重にも重なって見えてくる。

港は、もはや人を長くとどめる場所ではない。
それでも、ここには確かに、海とともにあった記憶が残っている。

次に太地町へと向かった。

太地町

太地町は、古式捕鯨発祥の地として知られ、いまも捕鯨が行われている。
町のスーパーの鯨売り場には、「撮影禁止」と書かれている。
その一言が、この場所が置かれている状況を静かに物語っているように感じた。
その営みは、時に外からの強い視線を引き寄せてきた。

海の近くには、くじらの博物館がある。ここでは捕鯨の歴史を学び、実際に鯨と触れ合うこともできる。少し歩くと、かつて稼働していた捕鯨船「第一京丸」が展示されている。
船の大半は海にあったはずなのに、陸に引き上げられたその姿は、異様なほど大きい。城のように、高くそびえている。

この町もまた、多くの人々を海の向こうへ送り出してきた。
特に、明治11年に背美流れと言われる捕鯨船の海難事故で捕鯨船団が壊滅し、太地は急激に衰退した。そのために海外への移住を決めた人も多かったという。
アメリカ・カリフォルニア州のターミナル島には、太地の人々が移り住み、最盛期には3000人が漁業や缶詰工場で働いていた。

しかし、その暮らしは長くは続かなかった。
戦争が始まると、日系人は収容所へと送られ、コミュニティは消えていった。

海は、人をつなぐ場所であると同時に、ある日突然、それを断ち切る場所でもあった。

港へ向かう。
船が静かに係留されている。ここから漁に出る人々がいる。かつては、この場所から遠くへ渡っていった人々もいたのだろう。

夕焼けの中、風が吹いている。
その風は、どこへ向かっているのか、もうわからない。


和歌山県は「海の県」である。

一方で、かつてのような航路はなく、漁業に従事する人も減り、造船所の多くも姿を消した。

それでも、海に正面を向く町のかたちは、いまも変わらず残っている。
祭りの日には、人々が海に向かい、古くからの営みが繰り返されている。

海の位置づけが変わった。しかし、すべては失われてはいない。

変わるものと、変わらないもの。
そして、確かなこと。

そこには今も、海と共に生きてきた和歌山の人々の記憶がある。

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