地域へのフィールドワークで、聞き取り対象である高齢の男性の発言に対し、教員がその場で「一喝し」制止したという事例がSNSで話題となっているようです。学生に対するハラスメントを止めることは当然の教員の責務です。
しかし、この出来事にはいくつかの重要な論点が含まれているように思います。
本件は、地方の研究者が地域の高齢者に聞き取り調査を行う中で、いわゆる夜這い文化に関する語りが始まり、それが武勇伝的な内容へと展開したというものです。その過程で、同席していた女子学生を指して対象化するような発言がなされ、教員はこの高齢者を一喝し、最終的に調査を中止したとされています。
ただ返信のバラつきに、心が少し痛みます。心無いコメントも多く見られる。これがSNSの世界なのでしょうか。こういうことは、一つの視点から読み解くことは難しいので、視点を分けて考えてみます。
1.フィールドワーク研究者として
まず、これは教育の場であり、学生という非専門家を守ることは最優先であり、その意味で当該教員の判断は妥当であったと言えます。特に、学生個人を対象化する発言がなされた場合には、その場で明確に線を引く必要があります。もう少し踏み込んで言うなら、今の教育の現場では、このような場に行くこと自体が困難だったのかもしれません。
一方で、研究者が単独で同様の場面に遭遇した場合を考えると、その対応はもう少し異なる可能性があります。すなわち、不適切な発言を制止することと、その出来事自体を記録・分析することは両立し得るものです。むしろ、そのような言動がどのような文脈で生まれたのか、どのような関係性の中で語られたのかを含めて記述することは、重要な研究成果の一部となり得ます。
したがって、フィールドワークにおいては、「止める責任」と「記述する責任」をいかに両立させるかが問われます。
2.ドキュメンタリー作家であれば
この出来事は、ドキュメンタリー制作の観点からも興味深い問題を含んでいます。仮にこの場面が映像として記録されていた場合、多くの作家はそれを作品に組み込むでしょう。それが現実の持つ力であり、作品の核心となる可能性もあります。一方で、被写体となった人物は、観客から強い視線を受けることにもなります。
そこで問われるべきは、「何を提示するのか」という点です。事実を提示することと、特定の個人に悪意を集中させることとは、本来別の問題です。現実の一断面を切り取ることが、そのまま誰かの断罪に結びついてしまうのであれば、その編集のあり方には慎重であるべきでしょう。語りの背景を十分に考慮しない提示は、結果として理解を歪める可能性があるからです。
おそらく私は、そのような場面をそのまま映像に組み込むことはできません。だからこそ、自分自身がプロのドキュメンタリー作家ではないということを、自分自身で理解しております。
3.ジェンダーとの関係
今回の事例は、ジェンダーの観点からも重要な示唆を含んでいます。誰がその場にいるのかによって、語られる内容が変化するという点です。
例えば、中年男性の研究者のみであれば同様の語りがより自然に展開された可能性もありますし、逆に若い女性がいることによって語りが変質した可能性もあります。このように、語りは固定されたものではなく、関係性の中で生成されるものです。
したがって、フィールドワークにおいては、「誰が聞くのか」という条件自体を調査設計の一部として考える必要があります。男性でなければ聞けない語り、女性でなければ引き出せない語りが存在するという前提に立つことは、むしろ現実に即した態度なのかもしれないです。
4.発信と非対称性
以上を踏まえても、この出来事をSNS上で今回のように発信したことについては、私はもっと慎重であるべきだった、と考えます。なぜならば、おそらく今回対象となった地域の高齢者の多くは、そのSNSを目にすることも、反論することもできない立場にあります。そして、結果として一方的な評価が外部に流通する構造が生まれてしまいます。ここには明確な非対称性が存在しています。このような非対称な状況においては、意図にかかわらず特定の個人や地域への一方的な評価が拡散されてしまう危険性があります。
特に「一喝」という言葉を使うということは、その場では学生を守るための適切な判断であったとしても、外部から見れば、正しさを背景に相手を一方的に制する行為、すなわち「正義を振りかざす行為」として受け取られかねない側面を持っています。
本来、フィールドワークとは調査対象との関係性の中で成立するものです。問題があった場合には、後日改めて説明を行う、あるいは条件を整理した上で関係を再構築するなど、対話のプロセスも含めて調査の一部と捉えることができるはずです。
そもそも、地域の人々は調査に協力する義務を負っているわけではありません。その非対称性を前提としたうえで、どのように語りを引き出し、どのようにそれを社会に提示するのかが問われています。
フィールドワークとは、単に正しさを示す場ではなく、関係を引き受けながら現実を記述していく営みであると言えます。ハラスメントを止めることと、現実の複雑さを理解することは対立するものではありません。その両方をいかに成立させるかが、これからの研究者に求められていると考えます。

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