ならまち上映。報告。

 映画は上映されて、そして終わる。それが悲しかった。

 映画「Yokosuka1953」の全国公開。そして、「横須賀1953」の商業出版。これはおそらく、世間一般的には「すごかった」のであろう。10年前の「私」だったら想像もできないような、「大きなこと」を確かに私はしでかした。それは十分に理解している。
 実際のところは、「横須賀1953」の文章を書き終えた瞬間、自分自身は「すっからかんかん」になっていた。自分の中にある言葉を出し尽くしてしまっていた。「Yokosuka1953」の上映の頃、舞台挨拶ではよく「私はこの映画で何かやれたような気がしています。この帰り道に私が交通事故で死んだというニュースを聞いても可哀想と思わないでください。私は何か一つはやり切った。だから今死んでも後悔することはないのです」と言っていた。それも含めて書いた「横須賀1953」。そしてそれは、すでに閉じた物語。
 しかし、しかしである。バーバラさんの母、信子さんを探し、神奈川公文書館で出会った戦後混乱期の女性たちの苦しさ。当時を知る人たちが、苦渋の中にも伝えようとしてくれた思い。奇跡的なことが続き、そして見えたこと。それを伝えることが自分の使命となっていたはず。これは勝手に私自身が思い込んでいたことではある。しかし、その使命を私は果たせたのであろうか。その問いは今もじくじくと私の中に残されたままである。

 映画は上映されて、忘れられる。本は出版され、発売日には注目を浴びても、いつの間にやら過去のものとなる。ただ、紙の束となった本であれば、数十年後にどこかの廃屋で、こっそりと佇んでいるのを誰かに見つかるという幸運はあるのかもしれない。それを見つけた人は、その本の持ち主、「横須賀1953」を初めて手に入れた誰かのことを想像してくれるのだろうか。なぜこの本を手に取ったのか、そして何を思ったのか。そんな妄想で、自分自身の仕事の意味を考えたりもする。

 少し前のこととなってしまったが、ありがたいことに「Yokosuka1953」を再び上映していただける機会に恵まれた。奈良市はならまち。ならまちにあるホテル尾花で開催される映画上映会「尾花deキネマ」の上映作品に選ばれたのである。きっかけは今年二月に奈良県吉野、大淀町にある光明寺で上映されたこと。光明寺で開かれている映画塾の塾長、河井真也さんに「Yokosuka1953」を見つけてもらえたのだ。そして、映画を愛してもらえ、住職の三浦明利さん、記者の小滝ちひろさんの尽力があって、ならまちでの上映が実現した。
 上映日は10月4日。私は出張先の松山から駆けつけ、上映各回後の舞台挨拶。2022年11月5日の初公開からすでに4年がたっていた。それなのに、1回目の上映は満席、そして2回目も満席近くの観客。
 うれしいことだった。舞台挨拶ではYokosuka1953に対して「私自身は導かれただけであり、自分で作った感覚をもっていない」ことを告げた。ここまでは映画上映当時から語ってきたことだ。ただ、劇場公開が終わってから見つかったこともある。バーバラさんの養子縁組に関係する裁判書類があったのだ。そこにはバーバラさん、当時はまだ木川洋子だった少女について「洋子は混血児と思はるる。洋子は一生日陰者となる運命にある」から養子縁組を認めるべきと書かれていた。そのことも語ることができた。

ホテル尾花。撮影は2026年10月5日。

 そして、奈良の歴史についても話題は及ぶこととなった。

 進駐軍、基地、そしてGIベビー。これらは今も基地がある横須賀や沖縄だけの話ではなかった。1952年、奈良市中心部にRRセンターが開設された。そしてセンターの周辺には、朝鮮戦争の前線から束の間の休息のために奈良を訪れる米兵たちのために享楽的な場が用意されていた。それも戦争だった。そして、それらの場を作ったのは奈良の人々だった。しかし、そのことは今に語り継がれてはいない。忘れ去られたことなのであろう。それとも、忘れようとしていることなのだろうか。

 舞台を降りて、私の著作を求めていただける方々、サインを書きながら、映画の感想を聞く時間を持てた。
 列に、お孫さんだろうか、付き添いの方と一緒に一人の高齢の女性が並んでいた。立たせているのも申し訳ない、しかし、一人ひとりとしっかりとお話しもしたい、そんな葛藤をこちらはもってはいたが、優しい笑顔で静かに並ばれていた。彼女はバーバラさんがいた幸保愛児園で栄養士をされていた。愛児園を築いた長谷川夫妻を直接知る女性だった。夫妻は執務室にアメリカへ渡った子供たちの写真を飾って、その子たちの思い出を楽しそうに語られていたという。長谷川夫妻への感謝と尊敬の気持ちを、その女性にも伝えることができた。ありがたい時間だった。

 また、他の一人の女性から不思議な質問を受けた。「先生の夢はなんですか?」というものだった。予想もしない質問だった。でも予想できなかったからこそ出てきた言葉だったのかもしれない。

「みんなが人間らしく生きてる世界を作りたい」と私は答えていた。

 なんと無邪気で、世の苦しみを知らない言葉だろう。自分自身のナイーブな発言に自分自身が驚いた。しかし、それが私の本音だったのだろう。私はまだ抗いたかったのだ。

 光明寺の住職をはじめ、ボランティアスタッフの方々を見送る。私は一人、奈良に残った。

 ならまちを歩いた。RRセンターが位置した当時の地図には、ならまちにも享楽施設があったことが示されていた。
 今は静かな街並みがあり、その静かな伝統美を求めてインバウンドの旅行者が歩く。日本酒を試飲できる店に多くが集っていた。ホテル尾花の中野聖子さんに教えてもらったおすすめの日本酒を注文し、味わった。
 ほろよいで、いやもう少し飲んでいただろう足取りで、少し雨の混じる古都を歩いた。

ならまち。撮影は2026年10月5日。

 売れてはいない。しかし、大切な何かをまだ探している。そして、映画を見てくれる方、本を求めてくれる人もいた。

 今日まで、すでに終わった物語を、被った埃を払いながら人前にもう一度出す、そんな感覚を持っていたのだろう。しかしこれはまだ、続いている物語だった。

 奈良のならまちの夜。

 

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